<プロローグ> 33年の余白
丁紹光は1939年10月7日、日中戦争の最中に峡西省城固に生まれ、西安で幼少期の7年を過ごした。
終戦後北京に移り、ほどなく国民党議員に選ばれた父親は、紹光とその上の3人の子供達を学校へ通わせるため北京の両親の家に残し、妻と幼い二人の子供だけを連れ、南京に赴任した。任地に到着後知った事は、南での国民党の地位が共産党の前に急速に失墜しているという事実だった。
その年の暮れ、彼は突然台湾に移り、一時的な避難だと思った妻は幼い二人の子供たちを連れ、すぐに上海から船で追いかけた。その時丁紹光の母は、残された4人の子供達との再会までに三十余年もの歳月がかかるとは、思いもしなかったであろう。
台湾で蒋介石のもとに国民党議員を続け、司法部で政府の捜査官を35年にわたって務めた父親 丁俊生は1979年台湾で没した。彼の葬儀には数千名もの人々が参列し、蒋介石の息子、蒋経国が弔辞を読んだ。それは紹光と母親のカリフォルニアでの再会に先立つ一年に満たない時だった。
北京に残した4人の子供だちとの別離の後、もう一人の子供を産んだ母親は、心の慰めに仏教に帰依した。引き離された家族は、香港の友人を通じて互いに連絡を取り合って、それはその友人の亡くなった1965年まで続けられた。
丁紹光の妹Shirley Ting Huは台湾大学を卒業後、1978年にアメリカに移住して、北京に居るはずの年長の兄弟たちと連絡を取ろうとした。しかし北京の住所には誰も居らず、彼女がアメリカから出した手紙はすべて返送されて来た。そして父親の死からわずか一ヶ月後、1979年に丁紹光の作品が香港の新聞で評論され、その記事が人を介して台湾に居る母親に送られた。
互いの無事を確認するなり、母は台湾からアメリカの娘のもとに、兄弟を代表して紹光が中国から渡って33年振りに再会を果たした。一足先に着いて空港に息子を出迎えた母の目には、タラップを降りてくる雄雄しい息子の姿が、亡くなって間もない夫の若き日のそれと重なって見えたと言う。
幼いころからいつか逢えると信じ、その寂しさを絵筆に託していた丁紹光にとっては、この瞼の母との再会が彼の人生を大きく変えることになった。雲南省の芸術学院で教鞭を執っていた彼は、いったん帰国し家族にアメリカ移住の決意を説得するとすぐに単身でまた渡米し、彼の地で家族を受け入れるべく準備を始めた。
昆明から北京に立ち寄り、別れの挨拶を済ませて飛び立つ丁紹光を見送ろうと、大勢の人々が集まった。ゲートヘと向かうティンは、ごうごうと聞こえてくる別れを惜しむ人々の声に涙を振るいながら、まっすぐに歩いて行った。新世界へと。 写真:丁ファミリー(1943年)。 左から3番目、父親の前にいるのが丁紹光
<プロローグ> 33年の余白
丁紹光は1939年10月7日、日中戦争の最中に峡西省城固に生まれ、西安で幼少期の7年を過ごした。
終戦後北京に移り、ほどなく国民党議員に選ばれた父親は、紹光とその上の3人の子供達を学校へ通わせるため北京の両親の家に残し、妻と幼い二人の子供だけを連れ、南京に赴任した。任地に到着後知った事は、南での国民党の地位が共産党の前に急速に失墜しているという事実だった。
その年の暮れ、彼は突然台湾に移り、一時的な避難だと思った妻は幼い二人の子供たちを連れ、すぐに上海から船で追いかけた。その時丁紹光の母は、残された4人の子供達との再会までに三十余年もの歳月がかかるとは、思いもしなかったであろう。
台湾で蒋介石のもとに国民党議員を続け、司法部で政府の捜査官を35年にわたって務めた父親 丁俊生は1979年台湾で没した。彼の葬儀には数千名もの人々が参列し、蒋介石の息子、蒋経国が弔辞を読んだ。それは紹光と母親のカリフォルニアでの再会に先立つ一年に満たない時だった。
北京に残した4人の子供だちとの別離の後、もう一人の子供を産んだ母親は、心の慰めに仏教に帰依した。引き離された家族は、香港の友人を通じて互いに連絡を取り合って、それはその友人の亡くなった1965年まで続けられた。
丁紹光の妹Shirley Ting Huは台湾大学を卒業後、1978年にアメリカに移住して、北京に居るはずの年長の兄弟たちと連絡を取ろうとした。しかし北京の住所には誰も居らず、彼女がアメリカから出した手紙はすべて返送されて来た。そして父親の死からわずか一ヶ月後、1979年に丁紹光の作品が香港の新聞で評論され、その記事が人を介して台湾に居る母親に送られた。
互いの無事を確認するなり、母は台湾からアメリカの娘のもとに、兄弟を代表して紹光が中国から渡って33年振りに再会を果たした。一足先に着いて空港に息子を出迎えた母の目には、タラップを降りてくる雄雄しい息子の姿が、亡くなって間もない夫の若き日のそれと重なって見えたと言う。
幼いころからいつか逢えると信じ、その寂しさを絵筆に託していた丁紹光にとっては、この瞼の母との再会が彼の人生を大きく変えることになった。雲南省の芸術学院で教鞭を執っていた彼は、いったん帰国し家族にアメリカ移住の決意を説得するとすぐに単身でまた渡米し、彼の地で家族を受け入れるべく準備を始めた。
昆明から北京に立ち寄り、別れの挨拶を済ませて飛び立つ丁紹光を見送ろうと、大勢の人々が集まった。ゲートヘと向かうティンは、ごうごうと聞こえてくる別れを惜しむ人々の声に涙を振るいながら、まっすぐに歩いて行った。新世界へと。
写真:丁ファミリー(1943年)。
左から3番目、父親の前にいるのが丁紹光