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「少年時代から高校時代まで」

丁紹光の母方の祖父母は100以上の部屋のある大きな邸宅と、4エーカーの土地を北京に所有していた。毛沢東の北京入城から半年後、子供たちと祖父母は屋敷から追い出され、家具なしの小さなアパートに放り込まれた。紹光は夜になるとドアの戸板をベッドにして眠った。

9歳で両親に見捨てられ、極端な貧困に陥ったため、彼は近所の子供たちのイジメの格好の対象となった。この状況に対処するため、かつてはおとなしく協調性のあった少年は、すさまじく攻撃的になっていった。およそ4年間は毎日のように自分より体の大きい年上の子供たちと争い、身を守るために少林寺拳法で戦う術を覚え、小規模の破壊行為にも加わったり、民家の屋根に登りパチンコで窓を割ったり、ストリート・ギャングまでするなどし、回りから小ターザンと呼ばれていた。

やがて、そのエネルギーは”水滸伝”、”三国志演義”などの中国古典に始まる読書へと誘われて行った。長兄から貰った西洋文学の翻訳本・トルストイ、バルザック、ロマン・ロランの大作は、この小ターザンに文学的興味と強烈な刺激を与え、夜を徹して読みふけり、読書するために外で暴れることを止めさせ、生涯に続く書物に学ぶ事をここから学んだ。

11歳から慰めに描き始めた絵は、1954年北京第八中学校で初めて正規の美術教育として受けることになる。昼休みになると、毎日紹光は学内にある雷教授のアトリエに行き、そこにある石膏像でひたすら素描の練習をした。その部屋の壁は黒布で覆われほとんど遮光されていてた。雷教授は生徒達に線の重要さを教え、途切れずに連続した線で描く方法を示した。

紹光が初めて心の友を見出し、芸術の道を共に志しながら友情を育んだのは第八中学校においてだった。劉乗江という同級生と放課後宿題を終えると、宵の道を一緒に散歩しながら芸術についてよく議論を戦わせた。西洋美術に触れる機会がなかった彼らには、今の学校の指導法であるソビエト式写実が本当に自分達を刺激し、発展させるものなのかどうかを。

1955年、中央美術学院が才能ある美術学生のために高校を設立する。丁紹光は試験の結果、最優秀クラスへ入学が許された。ここでは、敦煌壁画の模写に携わった芸術家達が教鞭を執った。

この年、メキシコの著名な壁画家であり共産党書記である、ダヴィド・アルファロ・シケイロス(1896−1974)が、ソヴィエト連邦訪問の後北京に立ち寄った。中国彫刻と古代壁画を深く理解した彼の評論は、中国のすでに成功した多くの芸術家たち、とりわけ北京中央工芸美術学院の人々に感銘を与えた。シケイロスがそれほど強い印象を与えたのは、彼の訪問にまつわるエピソードが、北京のリベラルな芸術家たちの間を駆け巡ったからだった。

中国の役人に伴われて雲崗の仏教石窟を見学した時、偉大な仏陀の彫刻に対面して思わず畏敬の念を抱き、シケイロスは跪いた。共産党主義者として反宗教の立場にありながら、中国文化の意義深い面前ではとうてい立っては居られなかったと言う。同行していた役人達も跪かざるを得なかったという、この逸話は自国の文化遺産への誇りと古代美術に対する敬意を失した役人への、おおいなる見せしめとなった。

この頃を回想して丁紹光は語る:「シケイロスは私が若い頃に凄まじい印象を与えました。特に彼の思想に影響を強く受けました。」

訪中後に送られた公開書簡で、シケイロスは美術として生命の無いロシア美術のアカデミックな写実主義を批判し、同時にそれに倣ってギリシャ・ローマ彫刻の石膏デッサンを学ばせる事で芸術家を養成し、ひいては5000年の伝統ある独自の文化を無視している中国に批判的だった。壁画にヨーロッパ的技法を使用することを拒絶し、スタイルと主題を決めるに当たっては、プレ・コロンビア美術とメキシコ人民を見ていたシケイロスは、中国の芸術家たちが自国文化の歴史を探求し、先人たちの芸術を振り返り、自らの作品を刺激すべきだと主張した。

翌春、1956年に北京で開催されたメキシコ・グラフィック・アート展は、北京の新聞で広く批評され、メキシコの芸術家が「メキシコ人民の英雄的、武力的、無私の精神」を表現し、「人民の声として」語っていると賞賛された。これは丁紹光が中国で見る事の出来た、最初にして唯一の外国作品の展覧会だった。

彼に非常に大きな影響を与えたもう一つの展覧会は、北京で1955年に見た、古代シルクロードの要衝、敦煌莫高窟の仏教壁画の複製展だった。第二次世界大戦中、芸術家チームを率いて、3世紀から8世紀の間に描かれたと推定される壁画の模写を制作したのは、張大千(1899−1983)の意図だった。

壁画と色彩に対する丁紹光の関心は早い時期に現れていて、後の1967年に彼自身が石窟を訪れた時に、彼のその後の作品を予告する印象を受けたのだった。

以下第2話に続く


写真:友人、劉乗江との撮影(1965年)。左側が丁紹光